<よい言葉①> 吾唯知足

   

こんにちは。シュウトウです。

皆さん、日々の生活のなかで「よい言葉」と出会うときってありませんか?
それはその時々の自分にとって、強く影響を残したり、インスピレーションを与えたり、感情を刺激したり、特別に感じられたりする言葉で、古典的な金言名句かもしれないし、好きなミュージシャンの歌の一節かもしれないし、誰かがふとつぶやいたたわいのない一言かもしれません。
でも、その言葉は啓示のようにあらわれて、心の深いところで実感を伴って「よいもの」と感じられる、そういう言葉だと思います。

シュウトウにもそんな「よいもの」と感じられる大切にしている言葉がありますが、そのなかから特に社会との関りにおいて意義深いと思える言葉をいくつかご紹介してみたいと思います。

新シリーズ<よい言葉>第1回は、

「吾唯知足(われ ただ たるを しる)」

この短い言葉は、京都の枯山水の石庭で有名な龍安寺というお寺にある「蹲踞(つくばい)」に刻まれています。

「知足」とは、仏教用語で「自分の身分をわきまえて、むさぼりの心を起こさぬこと」を意味するそうです。
仏教では「貧しい人」とは何も持ってない人ではなく、多くを持ちながら、まだまだ欲しい、と満足できない人のことであると教えますから、そうして味わうと、充足感のあるとても美しい言葉だと感じられます。

千利休は、わび茶の心得として「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也」と説いたそうですが、これも「知足」と無縁ではないのでしょうね。

ちなみに「蹲踞(つくばい)」とは低い位置に作られた手水場のことで、龍安寺では寺内にある『蔵六庵』という茶室のために設けられたものです。
茶室に招かれた客は、ここで手や口を清めて入室することになりますが、使うためには屈まないといけないことから、一説には、どのような高貴な身分、権力のある人でも、茶室に入る前には膝を折り頭を垂れて「知足」に向き合うことを求めているのだそうです。

翻って、このような戒めは資本主義が高度に発展した現代にこそ意識しなければいけないものだと感じます。
経済的に順風なときこそ「知足」に向き合って、謙虚に頭を垂れて自省しなければ、その先に待っているのは永遠に満たされることのない不毛な精神世界かもしれません。

人生を豊かにすることは、口座残高を無制限に増やし続けることと同義ではないはずです。

内省のために、またお客様との関わりを通じて、常に自分の価値観の根本にある大事な言葉です。

 - 1F 第1営業部